古伊万里資料館
国内伊万里



 
今に残された記録によりますと、18世紀も半ばを過ぎた宝暦7(1757)年のこと、オランダ・東インド会社による伊万里焼の輸出が、パタリと途絶えてしまったそうです。
その理由は何だったのでしょうか。
まず、イギリスとの戦争によってオランダ本国の海運業が衰えたことがあげられます。
一方、中国では明から清への王朝交替の混乱が落着し、景徳鎮などでの磁器生産が復活したことも、大きな要因です。


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円熟期の有田の陶工の技が
冴える献上伊万里
(中央;染錦獅子見込鉢 1680〜1710)
国内向け紅毛伊万里
(左:染付出島蘭船図大皿 1800〜1830)

そして、有田にとって肝心の輸出先では、デルフト窯(オランダ)、マイセン窯(ドイツ)などが、伊万里焼を模したかなり良質な磁器を生産するようになってきたのです。
海外での需要は急速に衰えました。しかし、有田の窯々は、状況の変化を座視していたわけではありません。その目は機敏に国内需要に向けられ、西欧向けの色絵の大壺や大皿から、染付けの茶碗、小皿など、日本向けのやきものがつくられるようになります。
この頃から、国内各地に運ばれはじめた伊万里焼は、日本の暮らしに、急速に広がっていきます。
それまでの、ぽってりとした陶器と比べ硬く焼きしまり、器形もシャープで、素地が白く絵が映える磁器は、江戸時代の人々に歓迎され、全盛期を迎えることになります。


■NO-13
幕末から明治にかけての
有田磁器

当時の輸送手段は船が主役で、伊万里港から船に積まれ、大阪にある佐賀藩指定の卸問屋へと運ばれました。
最大の消費地は江戸を含めた関八州でしたが、日本海航路の北前船で運ばれた伊万里焼も数知れません。
小浜(京都)、三国(福井)、福浦(石川)酒田(山形)、そして北海道の松前まで、北前船の寄港で殷賑(いんしん)を極めた日本海沿いの港や周辺の町々には、今も多彩な有田焼の数々が残されています。
西欧への輸出から一転し、国内に目を向けた伊万里焼は、高級な献上手から庶民向けの飯碗、そば猪口など種類も多種多様で、大名や武士、百姓、町人にいたるまで日本人の食卓に変化と彩りを添えることになります。
そして、時代は駆け足で、幕末から明治へと向かいます。


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源右衛門窯 明治から大正にかけての有田の絵描き座風景
(有田町歴史民俗資料館提供)




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